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ベルリン 人口

統一ドイツの首都であり、ドイツ最大の都市・ベルリン。 人口は350万人、これはドイツで最大であることはもちろん、ヨーロッパではロンドンについで第2位。イギリスがEUを離脱するとEUで最大の都市 … 1990年にベルリンの壁が崩壊して以降、ドイツの経済的な東西格差というのは縮まって来ていると言われてきた。しかし、実際には旧東ドイツの人口は減少を続けており、現在では1905年の水準まで落ち込 … ベルリン 東京(23区) 面積 891.1 km 2: 626.8 km 2: 人口: 3,574.8千人: 9,399.6千人: 人口密度(1㎢当たり) 4,012人: 15,123人: 在留外国人(人口に占める割合) 大都市ベルリンのほかに、分権化された中堅の地方都市が多く存在します。 ランキングに登場する都市は東ベルリン、ライプツィヒ以外はすべて旧西ドイツの都市です。 Berlin: Zeitreise Verlagsgesellschaft 2008. ベルリン州 Berlin: 州都: ベルリン / Berlin: 人口: 361万人: 面積: 892km2: 州内総生産: 1,366億ユーロ 近年のベルリンにおける人口増加、人々はいったいどこからベルリンへ移り住んできたのか?2016年の「新ベルリナー」の内訳から見えてくるベルリン、そしてドイツの未来とは。 ©The Asahi Shimbun Company / VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved. これまでも何度かベルリンの人口増加についてのトピックがブログの中で取り上げられてきたが、今回はその詳細に迫りたいと思う。 西ベルリンは、以下の行政区によって構成されていた。戦前の都心に当たる部分は東ベルリンに取られていたため、西ベルリンは戦前の新興繁華街や郊外を基盤に開発された。 アメリカの占領地域 ノイケルン (Neukölln) クロイツベルク (Kreuzberg) ©Copyright2020 ぽんたのドイツ観測所.All Rights Reserved. (function(d,s,id){var js,fjs=d.getElementsByTagName(s)[0];if(d.getElementById(id))return;js=d.createElement(s);js.id=id;js.src='https://connect.facebook.net/ja_JP/sdk.js#xfbml=1&version=v2.10&appId=263082007127713';fjs.parentNode.insertBefore(js,fjs);}(document,'script','facebook-jssdk')); Copyright ©  WINDGATE GERMANY ドイツ不動産・企業進出, ベルリンの学生は必ずお世話になる”studierendenWERK BERLIN”って?, 【シンポジウム聴講】オルタナティブ・カルチャー存続のために@ゲーテ・インスティテュート. Berliner Lindenblatt - Die Zeitung für Berliner Geschichte, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ベルリンの歴史&oldid=74704332. No reproduction or republication without written permission. また、当サイトで提供する用語解説の著作権は、(株)朝日新聞社及び(株)朝日新聞出版等の権利者に帰属します。 仏教用語。仏道修行に励まないこと。怠りなまけること。六大煩悩の一つあるいは二十随煩悩の一つとして数えられる。... 「コトバンク」は朝日新聞社の登録商標です。「コトバンク」のサイトの著作権は(株)朝日新聞社及び(株)VOYAGE MARKETINGに帰属します。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報, 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例, …すなわち,新即物主義の文学は,事実に即し事実そのものに語らせようとするが,19世紀の自然主義の客観的写実とは異なり,生の仮面をはぎながらも,その傷口を嘲笑やグロテスクでニヒリスティックにおおい隠そうとする,いわば知性主義によって貫かれていた。したがって,その代表的作品には,東は犯罪,中央は詐欺,北は貧困,西は淫乱の大都市ベルリンを舞台としたものが多く,再生を誓う前科者の一労働者の物語,デーブリーンの《ベルリン・アレクサンダー広場》(1929),小市民の憂鬱な生活を描いたH.ファラダの《安サラリーマン,さあどうする》(1932),ともにアウトサイダー的インテリ青年の悲劇的運命を戯画化したケストナーの《ファービアン》(1931)とケステンHermann Kesten(1900‐96)の《山師》(1932)などがあげられる。とりわけ《ファービアン》は,20年代末の犯罪,詐欺,貧困,ポルノなど大都会の退廃を即物的に描いたがゆえに〈アスファルト文学〉とも酷評されたが,主人公にみられるわざとらしいむとんちゃくさと一抹のロマン主義は,〈黄金の20年代〉に支配的な生活気分で,新即物主義の一面でもある。…, …ベルリン(旧,東ベルリン)にある美術館。同市を流れるシュプレー川の中州,いわゆる〈美術館島Museuminsel〉にあるベルリン国立博物館Staatliche Museenの建築群中,最も大きな建物の通称。…, … 20年代の特徴は,なにより都市的であることである。ヨーロッパではパリやベルリンが最も20年代らしい都市であった。20年代のパリには,ロシア革命によって亡命してきたロシア人と,戦後パリにあこがれて禁酒法のアメリカを逃れてきた,いわゆる〈パリのアメリカ人〉があふれていた。…. Luise Berlin – Stadtchronik des Luisenstädtischen Bildungsvereins e.V. 人口8000万人、面積は35.7万km 2 で日本より少し小さい。ヨーロッパでは最も人口が多く、ヨーロッパ最大の経済大国。首都はベルリン。正式な国名はドイツ連邦共和国。 イギリス 人口6500万人、面積は24.3万km 2 で、日本のおよそ3分の2。イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの4つの国でできている。 火打石や加工された骨が見つかったことにより、だいたい紀元前6万年ごろにはベルリンの周辺に人間が生活していたということが解明された。同時期に遠く離れた北部ドイツや東部ドイツでは、紀元前7万年から同8000年にわたる最終氷期の氷に覆われていた。ベルリンから南に75キロメートルにあるグローガウ=バールート原流谷(ドイツ語版)(ポーランドのグローガウからベルリンの南に位置するバールート/マルクやブランデンブルク周辺にまで伸びる、氷河の作用でできた渓谷)には、大陸氷河がその南端として広がっていたが、人間が住んでいた集落は氷に覆われていない高地に限定されていた。すべての渓谷の地下に見られるように、融氷水でできた大量の砂の層があることから、およそ18,000年前のフランクフルト期にできたベルリン原流谷(ドイツ語版)にも融氷水が流れ込んだと考えられている。約16,000年前のベルリン周辺の地域には氷が張っておらず、この年代の低地帯にはヴュルム氷期のモレーンが見られる。シュプレー川がベルリン原流谷を流れ、その下流にはマツの生えたツンドラ地帯がところどころにあった。また西側には渓谷や泥炭地が広がっていた。, ベルリンで最も高い山、大ミュッゲルベルク山(ドイツ語版)(標高114.7メートル)のあるミュッゲルベルゲ丘陵地のような丘陵地は氷期にできたと考えられている。バルニム(ドイツ語版)やテルトウ(ドイツ語版)といった台地はシュプレー川が流れはじめたあとに平行して形成された。氷が少なくなってくるにつれて、シカやイノシシといった動物が定着するようになり、一方でトナカイなどは移動していった。その後ヒトが定着し、狩りをするようになってムラを形成するようになった。シュプレー川やダーメ川(ドイツ語版)、ベーケ川(ドイツ語版)沿岸には紀元前9000年紀ごろに鏃や削器、石斧などが見つかり、これらを使った狩猟・漁獲が行われていたと見られている。紀元前7000年紀ごろには狩猟の際のまじない品として仮面が使われていたと考えられている。, 紀元前3000年紀には耕地が造られたり家畜飼育が行われたりしたほか、手製の土器、備蓄倉庫などが作られるなどの文化が形成された。紀元前6世紀になると、このころの史料にスエビ族の一部であるセムノーネース族(ドイツ語版)やブルグント族といった名称が出てくるようになり、勢力を強めたゲルマン人が定住するようになる。, 紀元後4世紀から5世紀にかけてゲルマン民族の大部分がハーフェル川やシュプレー川周辺から離れ、シュヴァーベンなどのオーバーライン地方(ドイツ語版)に移っていった。このためベルリン周辺の人口密度は低下したが、なおも少数のゲルマン人がベルリン周辺に残っていた。6世紀になるとスラヴ人がラウジッツ地方に流入し、720年ごろになるとベルリン周辺に入り込んできた。スラヴ人はかねてより住んでいたゲルマン人にかわってベルリンに定着するようになった。, ベルリンに残ったゲルマン人は数世紀にわたって奪還に失敗し続けてきたが、その後ベルリンのスラヴ人時代はアスカニア家出身のアルブレヒト1世がヤクツォ(ヤクサ・フォン・ケーペニック(ドイツ語版)と同一人物とする見方がある)率いるスラヴ人を打ち破り、1157年にブランデンブルク辺境伯に封じられたことで終焉を告げる。現在のベルリン内に形成された最初の村がテルトウ台地に造られ、その後アスカニア家の辺境領として開拓されて、政治の中心地やシトー修道会(レーニン修道院)[1]とテンプル騎士団(騎士修道会管区テンペルホーフ(ドイツ語版))などの世界的な活動の中心地となっていった。, テルトウ台地とバルニム台地の間にある沼地となっていた渓谷のうち、水が比較的少ない一帯では、シュプレー川に浅瀬が形成されていた。浅瀬の右岸ではアルト=ベルリン(ドイツ語版)(本ベルリン)が発展し、シュプレー川の中州にはケルン(ドイツ語版)が形成されていった。同時期にのちの大ベルリンを構成する地域の名称が文書に出てくるようになる。1197年にシュパンダウ、1209年にケーペニック(ドイツ語版)、1237年にケルン、1244年にベルリンという名称が現れてくるが、このうちシュパンダウとケーペニックはかつてスラヴ人地域であった。ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェルの大聖堂博物館に所蔵されている古い文書には1237年10月28日の日付でケルンが、1244年1月26日の日付でベルリンが記載されている。シュパンダウは1232年に都市特権が付与されるが、これは同時にベルリンが都市特権を与えられたことを意味する。1307年にはベルリンとケルンが統合される。双子都市ベルリン=ケルンは、かつて共同辺境伯オットー3世(ドイツ語版)とヨハン1世(ドイツ語版)の統治下で港周辺に市場を開く権利を与えられたシュパンダウやケーペニックなどの都市に比べても、特に経済の面で発展していった。, 近年の研究では、ベルリン・ケルンへの初期の入植は、おそらく12世紀末に始まったと考えられている。1997年から1999年の考古学調査では、ブライテ通り28番地(アルト=ケルン)で、1200年ごろに再利用された木材が発見され、年輪年代学を用いると1171年ごろかそれ以降のものであると判明した[2]。2007年、ペトリ広場(ドイツ語版)にある地下貯蔵庫での発掘調査では、オークの木材が見つかった。年輪年代学による分析の結果によると、1212年ごろのものであると鑑定された[3]。, 1230年代以降に共同辺境伯の統治下で双子都市が重点的に開発を進められたことは、テルトウ台地やバルニム台地が居住地となっていくことと密接な関係がある。アスカニア家がこれらに進出していくようになるということは、ミッテンヴァルデ(ドイツ語版)やケーペニックといったテルトウ地方やヘーノウ(ドイツ語版)地方、特にヘラースドルフ(ドイツ語版)におけるヴェッティン家の支配に対する戦略的要素を有していたと考えられている。当時のアスカニア家とヴェッティン家の領域の境界線は、現在のベルリン市域をちょうど東西に分ける位置に引かれていた。なお両者の間にマクデブルク大司教領があったという説は、近年では否定的な見方が強い[4]。ヴェッティン家との緊張関係は1239年から1245年にかけてのテルトウ戦争(ドイツ語版)でアスカニア家が勝利し、これによりテルトウと、リューダースドルフ(ドイツ語版)を除くバルニムがアスカニア家の支配下に置かれるようになり、現在のベルリン市域が形成された。, 1320年にハインリヒ2世が没してアスカニア家が断絶したことで、ハインリヒ2世の母方の叔父で当時神聖ローマ皇帝でもあったヴィッテルスバッハ家のルートヴィヒ4世は1323年に自らの長男であるルートヴィヒ(ブランデンブルク辺境伯ルートヴィヒ2世)を新たなブランデンブルク辺境伯に封じた。ブランデンブルクを手中に収めるとヴィッテルスバッハ家は強圧的な統治を始めた。1325年にはベルリン=ケルンの司祭で皇帝に反抗していた教皇派のニコラウス・フォン・ベルナウを焼殺したことにより、ローマ教皇はベルリンに対してインターディクト(聖務禁止令)を下した。, 1373年、ルクセンブルク家のカール4世がオットー5世(ルートヴィヒ4世の6男)からブランデンブルクを買収して長男のヴェンツェルに与えたが、1380年にはベルリンで大火災が発生し、市庁舎や教会の建物に壊滅的な被害を与えた。, 1415年、ニュルンベルク城伯フリードリヒ6世がジギスムントからブランデンブルクを与えられて選帝侯となり、1440年までブランデンブルクを治める。その後ホーエンツォレルン家は1918年まで、当初はブランデンブルク選帝侯として、その後プロイセン公、プロイセン国王、ドイツ皇帝としてベルリンを治めていくことになる。しかしながらベルリン市民はそういった変革を必ずしも歓迎していたわけではなかった。1448年にはフリードリヒ2世鉄歯侯の新宮殿建設に反対してベルリン反乱(ドイツ語版)が起こる。ところがこの抵抗は成功せず、市民は政治的にも経済的にも自由を失うこととなった。1451年、ブランデンブルク選帝侯はケルンに王宮を建設した。, ホーエンツォレルン家の拠点となったことにより、ベルリンはハンザ都市の地位をやむなく放棄した。また経済活動は通商から貴族階級向けの贅沢品の生産へと転換していった。人口は急速に増加し、1600年ごろには12,000人ほどとなるが、同時に貧困も増加した。この間にはユダヤ人が迫害されることがあった。1510年にはホスチアを盗んで穢したとして100人のユダヤ人に嫌疑が向けられ、そのうち38人が焼殺、2人は後にキリスト教に改宗するが斬首、残りのベルリンにいたユダヤ人は追放された。ただこの30年後には彼らの無実が認められ、ユダヤ人は、金銭を払うことを条件に再びベルリンに居住することが許された。しかし1573年に再度ユダヤ人は追放され、その後100年間は戻ることが許されなかった。, 1539年、ブランデンブルク選帝侯ヨアヒム2世はブランデンブルクにおいて宗教改革を行い、教会の世俗的な領地を差し押さえた。これによって得られた資金はグルーネヴァルト狩猟宮殿(ドイツ語版)と居城であるベルリン王宮とを結ぶ道路、クーアフュルステンダム(ドイツ語版)の建設といった大規模な事業に投じられた。1567年、ベルリンとシュパンダウとの間で3日間に及ぶ戦争(棍棒戦争(ドイツ語版))が起こる。この戦争はもともとベルリンとシュパンダウに分かれて模擬戦闘を行っていたものだが、負ける役を与えられたシュパンダウがこれを拒んだことから実際の戦争に発展し、最終的にはベルリンがシュパンダウに大勝する結果となった。, 17世紀前半、三十年戦争によりベルリンは被害を受ける。市内にあった家屋の3分の1が損壊し、人口は半減した。1640年、のちに大選帝侯として称えられるフリードリヒ・ヴィルヘルムが父親の死去を受けてブランデンブルク選帝侯を継承する。フリードリヒ・ヴィルヘルムはまず移民の受け入れと宗教寛容策を打ち出す。また市域の拡張開発やフリードリヒスヴェルダー(ドイツ語版)、ドロテーエンシュタット(ドイツ語版)、フリードリヒシュタット(ドイツ語版)といった周辺地区を築いていった。1671年、オーストリアから追放された50人のユダヤ人に住居が与えられた。1685年、フリードリヒ・ヴィルヘルムはポツダム勅令を下してフランスのユグノーを受け入れた。このとき15,000人を超えるフランス人がブランデンブルクに移住し、そのうち6,000人ほどがベルリンに住むようになった。1700年ごろにはベルリン市民のうち20%ほどがフランス系住民となり、ベルリンの文化に大きな影響を与えた。このほかにもベーメン(ボヘミア)、ポーランド、ザルツブルクからベルリンへ移民が集まってきた。またフリードリヒ・ヴィルヘルムはこのころ常備軍を整備した。, 1701年、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世はプロイセン王として戴冠され、フリードリヒ1世となる(ただし当時のプロイセンは全域がブランデンブルク選帝侯の支配下に置かれていなかった)。フリードリヒ1世はまずプロイセン全土の統一に努めようとした。フリードリヒ1世はベルリン西部にシャルロッテンブルク宮殿を造営し、また1707年までにはベルリン王宮を拡張している。また1709年1月18日にフリードリヒ1世は勅令で、従来独立していたベルリン、ケルン、フリードリヒスヴェルダー、ドロテーエンシュタット、フリードリヒシュタットを1710年1月1日までに統合して王都ベルリンとすることを明らかにした。また城門の周囲にはすでに新たに郊外地域の開発が進められていた。, 1713年、フリードリヒ1世の子フリードリヒ・ヴィルヘルム1世はプロイセン王位を継承し、財政を立て直してプロイセン主力軍の整備に努めた。1709年にはベルリンの人口が55,000人ほどとなっており、そのうち5,000人が兵役に就いていたものが、1755年には人口が10万人を突破し、26,000人の兵力を持つようになっていた。さらにフリードリヒ・ヴィルヘルム1世はベルリン市の周囲を木製の壁で囲み、14の門を築いた。, 1740年、フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)がプロイセン国王に即位する。フリードリヒ2世はヴォルテールと文通していたこともあって「哲学王」(Philosoph auf dem Thron) とも称される。フリードリヒ2世の統治下においてベルリンは啓蒙思想の中心地となり、このころのベルリンでは哲学者モーゼス・メンデルスゾーンが名声を高めていた。フリードリヒ2世の後継者フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の時代になると経済が停滞する。フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は啓蒙思想を嫌い、検閲を実施して抑圧的な政策を執る。フリードリヒ・ヴィルヘルム2世のもとでベルリンを囲む防壁が石でできた稜堡式城郭に作り変えられる。18世紀末には新たに、現在のベルリンのランドマークとなっているブランデンブルク門が建造される。, 1806年、ベルリンはナポレオン・ボナパルトに占領される。これにより次第に民主化がもたらされていき、ベルリンは自治権を得るようになる。1809年には初のベルリン市議会選挙が行われるが、このとき投票権が与えられたのは富裕層の男性のみであった。1810年、ベルリン大学(のちのベルリン・フンボルト大学)が創立され、初代総長には哲学者のヨハン・ゴットリープ・フィヒテが就く。1810年から1811年の間にはハインリヒ・フォン・クライストによりベルリンで初となる日刊紙『ベルリン夕刊新聞(ドイツ語版)』が発行された。1812年になるとユダヤ人に対して居住権が認められるようになる。しかし、1814年にフランスが敗北することで、これらの変革の動きは終わりを迎えることになった。, 19世紀前半には産業革命が起こり、人口が20万から40万に急増する。ベルリンはヨーロッパでもロンドン、パリ、サンクトペテルブルクについで4番目に大きい都市となる。1838年にはプロイセンで初となる鉄道会社ベルリン-ポツダム鉄道(ドイツ語版)が開業し、ポツダム駅(ドイツ語版)の設置は鉄道の街ベルリンを急速に発展させるきっかけとなった。, ほかのヨーロッパの都市と同様に、1848年はベルリンにおいても革命の1年であった。フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の時代にはいわゆる「バリケード蜂起(ドイツ語版)」が起こるもこれは鎮圧される。しかし情勢は深刻なものとなり、1848年6月14日にはベルリン武器庫襲撃(ドイツ語版)が発生し、略奪が起こった。この事件を受けてベルリンの自治は、選挙に参加するための納税額の下限を引き上げられて制限されることになった。このためベルリン市民で選挙に参加できたのは全人口のわずか5%に抑えられた。この選挙制度は1918年まで継続された。, 1861年、ヴィルヘルム1世がプロイセン国王に即位する。ヴィルヘルム1世の治世下では当初、自由化が期待された。ヴィルヘルム1世は自由主義系の大臣を任命し、また赤の市庁舎の建設を進めた。1861年、ベルリンはヴェディング(ドイツ語版)とモアビート(ドイツ語版)を編入し、また郊外のテンペルホーフ(ドイツ語版)、シェーネベルク(ドイツ語版)へと拡張した。, この時期のベルリンの人口急増は大きな問題を惹き起こすことになった。1862年には、ジェームス・ホーブレヒトがベルリンとその周辺を道路や鉄道で結ぶ、いわゆる「ホーブレヒト計画(ドイツ語版)」を立案した。またルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ヴィルヒョウ参加のもと、上下水道施設が整備され、ベルリンは近代都市としての条件を整えていった。, プロイセンは自らの指揮の下により独仏戦争を終結させたことにより小ドイツ主義を推し進めていく。1871年にはドイツ帝国が建国され、ヴィルヘルム1世が皇帝に即位した。またオットー・フォン・ビスマルクが帝国宰相に任命され、ベルリンは帝都となった。, ベルリンはこの時代に産業都市として発展し、人口も80万を超えるようになっていた。この成長によりインフラストラクチャーが間に合わなくなってきた。1873年にようやく下水道整備工事が開始され、1893年に完了する。経済の面では、いわゆるグリュンダーツァイト(ドイツ語版)(泡沫会社乱立時代)を経て1873年恐慌が起こり、1870年代後半は不景気となっていく。しかしながらなおも都市開発を進めることは課題として残っていた。1876年1月1日、ベルリン市は帝国政府から橋と道路の建設に関する契約を受ける。1882年のいわゆるクロイツベルク判決(ドイツ語版)により、建築警察(ドイツ語版)の権限は危険回避にかかるものに制限され、美観に関する関与は禁止された。, 1896年、輸送力の増強を図るため地下鉄と近郊線の建設が開始された。またヴィルヘルミニッシャー・リング(ドイツ語版)といった都心周辺の住宅地(クロイツベルク(ドイツ語版)、プレンツラウアー・ベルク、フリードリヒスハイン(ドイツ語版)、ヴェディング)では、労働者が安い家賃で住める集合住宅が建設された。1850年からはベルリン南西部の開発に着手し、中産階級向けの住宅街を拡張し、また19世紀末には西部で高級住宅街が造成されていった。1904年から1908年にかけて、ベルリンについて詳細に研究した 『大都市叢書(ドイツ語版)』全51巻が出版された。これは当時のドイツ語圏で行われた都市研究プロジェクトの中で最大のものである。この主要なテーマの一つに、ベルリンとウィーンの比較がある。それは当時、ベルリンは「近代の人工都市」、ウィーンはこれに比べ伝統、文化の面で優る、と一般に理解されていたという背景がある[5]。1909年、ヨハニスタール(ドイツ語版)にドイツ初の飛行場、ヨハニスタール飛行場が開かれる。1911年にはベルリン市域の急速な発展によりインフラストラクチャー政策の調整が必要となったことから大ベルリン広域連合(ドイツ語版)が設置され、この目的組合は1920年に大ベルリン(後述)となっていく。またこの広域連合の成果として保存樹林協定(ドイツ語版)の締結が挙げられる。, 第一次世界大戦によりベルリンは食糧不足に苛まれる。1916年から1917年にかけての冬の時季には15万人が食糧支援を頼り、またストライキも起こった。1918年に大戦が終結するとヴィルヘルム2世は皇帝を退位する。その後社会民主党 (SPD) に所属していたフィリップ・シャイデマンと共産主義者カール・リープクネヒトはそれぞれ11月革命が成功したのちに共和政国家の成立を宣言する。その翌月、ベルリンでは議会会派間で市街戦が頻発した。, 1918年12月末、共産党 (KPD) がベルリンで創設される。1919年1月、KPD は政権を奪取しようとスパルタクス団の蜂起実行を試みる。この暴動は失敗し、1月15日にローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトは右派の武装集団によって殺害された。1920年3月、右派ドイツ祖国党(ドイツ語版)を結成したヴォルフガング・カップは政府の転覆を図り、ベルリン駐屯部隊に側面から攻撃させて、政府ビルを占拠した(なお当時のヴァイマル共和国政府はすでにベルリンを逃れていた)。しかしこのクーデターはゼネラル・ストライキによって阻まれた。, 1920年10月1日、行政区新設法(Gesetz über die Bildung einer neuen Stadtgemeinde)により大ベルリンが設置されることになった。これにより旧ベルリンは7市 (Stadtgemeinde)(シャルロッテンブルク(ドイツ語版)、ケーペニック、リヒテンベルク、ノイケルン、シェーネベルク、シュパンダウ、ヴィルマースドルフ(ドイツ語版))59村 (Landgemeinde)、27領地区域 (Gutsbezirk) と統合された。このとき大ベルリンの人口は3,804,048人に上った。, 1922年、ベルリンで外相ヴァルター・ラーテナウが殺害される。ベルリンはこの事件に衝撃を受け、およそ50万人の市民が葬儀に参列した。, ヴァイマル共和政期の景気は惨憺たるものであった。ドイツはヴェルサイユ条約により莫大な賠償金を支払わなければならず(第一次世界大戦の賠償を参照)、政府は貨幣を多く発行することで問題を解決しようとした。さらに賠償支払い問題に加えて、1923年に発生したハイパーインフレーションは、とりわけ労働者、給与所得者、年金生活者を苦しめるものとなった。しかし1924年になると連合国のひとつであるアメリカ合衆国が支援策を講じたり、財政政策を改善すると状況が好転し、ベルリンは最高潮、いわゆる「黄金の20年代」を迎える。このころのベルリンはヨーロッパ最大の産業都市となっていた。, 文化の面でも、建築家ヴァルター・グロピウス、物理学者アルベルト・アインシュタイン、画家ジョージ・グロス、作家アルノルト・ツヴァイク、ベルトルト・ブレヒト、クルト・トゥホルスキー、俳優マレーネ・ディートリヒ、映画監督フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ムルナウ、フリッツ・ラングといった人物が集まった。クラシック音楽でも、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を率いるヴィルヘルム・フルトヴェングラーやベルリン市立歌劇場のブルーノ・ワルター、ベルリン国立歌劇場のエーリヒ・クライバーといった当時の世界でも代表的な指揮者たちが活躍し、ベルリンはヨーロッパにおいて文化の中心となった。この時代のナイトライフは映画『キャバレー』で表現されている。, 1924年、テンペルホーフ空港が開港する。また同年、初のベルリン国際無線展示会(ドイツ語版)がメッセ会場(ドイツ語版)で開かれた。ベルリンはドイツ国内で2番目に大きな内陸港となった。1924年からはベルリン市内の鉄道(市街線、環状線、近郊線)の電化が進められ、1930年にSバーンとして統合された。このようなインフラストラクチャーはベルリン400万市民の生活に欠かせないものであった。1926年にはベルリン電波塔(ドイツ語版)で第3回無線展示会が開かれる。1930年から1933年のあいだには、のちに技師となるヴェルンヘア・フォン・ブラウンが所属する宇宙飛行協会がテーゲル(ドイツ語版)のロケット発射場で液体燃料ロケットの初の発射実験を行った。, しかしこのような黄金期は1929年の世界恐慌で終焉を迎える。1932年7月20日、プロイセン州のオットー・ブラウン政権がプロイセン・クーデター(ドイツ語版)によって倒れ、共和政は極左・極右の影響を受けて崩壊しようとしていた。11月には共産党が市議会で単独第一党となる。そして1933年1月30日、ヒトラーが帝国首相に任命される。, 共産主義者や社会主義者の牙城であったベルリンがナチズムの中心になったことはなく、ナチズムはもっぱらバイエルンにその起源をたどることができる。ベルリンはヴァイマル共和国とナチス・ドイツの両方の首都となった。, 1933年2月27日、ドイツ国会議事堂放火事件が起こる。ナチ党はこの事件を利用して基本権を停止させたことにより、事実上ヴァイマル憲法は効力を失った。, 1933年ごろのベルリンにはドイツ系ユダヤ人の3分の1にあたる、およそ16万人のユダヤ人が居住しており、ベルリン市の人口の4%を占めていた。その3分の1は東ヨーロッパから移り住んできた貧困層で、おもにアレクサンダー広場付近のショイネン地区(ドイツ語版)で暮らしていたが、ユダヤ系住民はナチス政権から迫害を受けていた。1933年3月にはユダヤ系の医師がベルリン大学医学部付属病院シャリテから退職を余儀なくされ、4月にはいるとナチス政府は「ユダヤ人ボイコット運動」を唱え、ユダヤ系以外の市民がユダヤ人の経営する商店での購入を妨害した。, 1936年、ベルリンで第11回夏季オリンピック大会が開催される。ナチスは1933年以降、ベルリンでオリンピックが開催されることをプロパガンダとして利用した。国際社会に演出した「普通の国」に傷をつけないように、従来までのユダヤ人に対する差別や迫害政策を緩和したりした。たとえば一時的に Für Juden verboten (ユダヤ人禁止)の看板を撤去するといったことが行われた。1937年、ベルリン700周年祝賀行事にあわせてナチスのプロパガンダ集会が開催された。, このころになるとナチスは世界首都ゲルマニア計画を打ち出し、ベルリンの拡張に着手した。建築家アルベルト・シュペーアの計画では、ベルリンに巨大な通りを造り、これに沿ってモニュメントとなる建築を配置するものだった。この計画のほとんどは実現されなかったが、その名残りとなる構造物は現在もなおベルリン市内で目にすることができる。, 1938年11月9日から10日にかけて、いわゆる「水晶の夜」事件が起こり、シナゴーグに火が放たれ、またユダヤ系商店や居住地域は破壊されたり、ユダヤ人が拘束されたりした。1939年ごろのベルリンにはおよそ75,000人のユダヤ人が住んでいたが、1941年10月18日、グルーネヴァルト駅(ドイツ語版)から、ユダヤ人を移送する一番列車がリッツマンシュタットに向け出発した(ウッチ・ゲットー参照)。これは後に計63本編成されることになる。またホロコーストが始まった。5万人のユダヤ人が拘束されて強制収容所に送られ、その多くが殺害された。ホロコーストに関して歴史上重要な出来事として、1942年にヴァンゼー湖畔で開かれたヴァンゼー会議が挙げられる。ここでは国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒが主導してホロコーストの実行が決定された。このようなことが起こってもベルリンでは1,200人を超えるユダヤ人が身を隠して生き残ることができた。, ベルリンから北西に30キロ離れたオラーニエンブルク近くにはザクセンハウゼン強制収容所があり、おもに政治犯やソヴィエト赤軍の捕虜が収容され、1万人がそこで死亡した。ザクセンハウゼン強制収容所には付近に工場が併設されており、そこで収容されていた人々には強制労働が課された。このような収容所はベルリンにも数多く存在していた。, 1939年、第二次世界大戦が開戦するが、当初ベルリンは戦争の影響をほとんど受けていなかった。1940年にはベルリンにイギリスによる初の空襲がなされるが、爆撃対象がわずかにはずれていたため初期の被害は比較的小さなものであった。しかしアメリカが参戦するとベルリンの被害の範囲は拡大していった。イギリスが夜間にベルリンに向かう一方で、アメリカが昼間にベルリン上空を飛行するようになったことで、爆撃はほぼ24時間中行われるようになった。1945年3月、1,250機の爆撃機がベルリンを攻撃し、およそ2万人のベルリン市民が死亡、150万人が住居を失った。ベルリン中心部は完全に破壊された一方で、郊外部の被害は少なかった。こういったベルリン空襲で、平均するとベルリン市の5分の1(そのうち中心部が50%を占める)が破壊された。, 交通機関もまた大きな被害を受けており、運行状態も戦争の終結まで壊滅的なものであった。ベルリンに投下された爆弾は45万トンにも上った。1945年4月21日、ソヴィエト赤軍とポーランドの部隊がベルリンに侵攻した(ベルリン市街戦)。1945年4月30日、ヒトラーは総統官邸の地下壕で自殺し、5月2日、ベルリン防衛軍は降伏し、ベルリンは陥落した。ベルリン市民の女性の多くがソ連兵に強姦されたと言われている。ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた10万の女性のうち、その後死亡した人が1万前後でその大半が自殺だった。, 戦争終結後、ベルリンには瓦礫と灰が積もっていた。市街地の28.5平方キロメートルが廃墟となり、60万件の住居が全壊、10万件が損傷し、百貨店も2軒に1軒は崩壊していた。1939年の開戦から数えると100万人もの市民が戦死、逮捕、または避難によってベルリンから失われた。, 1945年2月11日、ヤルタ会談において連合国はドイツをイギリス、フランス、アメリカ、ソヴィエト連邦の4か国で占領し、ベルリンも4つに分割することが決められた。またソヴィエト赤軍はベルリンの戦い以降駐留し続けた地域のうち、1945年夏に西側3か国の占領地域から撤退した。ソヴィエトの軍司令官は5月の内に、戦後初のベルリン市長にアルトゥール・ヴェルナー(ドイツ語版)を任命し、ベルリン市参事会(ドイツ語版)、また共産党員が支援する市行政組織を設立した。ベルリンは連合国が4地区に分割して統治することになったが、4地区を通じて同一の司令官が管轄するものとされた。しかしこのとき、すでに西側諸国とソヴィエト連邦との間で激しい政治対立が起こっていた。米英占領地区 (Bizone) や米英仏占領地区 (Trizone) の形成、またのちのドイツ連邦共和国(西ドイツ)の成立や、ソヴィエト占領地区で流通していたライヒスマルクを西側占領地域において貨幣価値を消滅させるという突然の一方的な通貨改革(ドイツ語版)の実施について、ソヴィエトはこれらを4か国協定が破棄されたものと解釈した。一方でこの対立はソヴィエト占領地区がマーシャル・プランへの参加を拒絶した当然の結果でもある。マーシャル・プランは、ソヴィエト連邦にとってはその経済圏が引き離されることを意味し、受け入れるわけにはいかなかった。東側地域のドイツ各州はソヴィエト連邦に対して戦争賠償を支払い続ける必要があったのに対し(デモンタージュ)、西ドイツおよび西ベルリンはマーシャル・プランのもとで経済が強化され、また自由化が進められた。, 1946年10月20日、4か国占領地区合同での大ベルリン市議会(ドイツ語版)選挙が行われ、SPD がキリスト教民主同盟 (CDU) 、社会主義統一党 (SED) に対して勝利する。政府や議会では非難の応酬が激しさを増し、西側占領地域に関する議論で騒然となる場面が引き起こされ、ついにはSED議員の出席が拒否される事態に至った。, 1948年12月5日、大ベルリン市議会の改選が行われたが、ソヴィエトが自占領地区での選挙を禁止したため、実際には西ベルリンでのみ投票が行われた。社会主義統一党はこれに先立つ11月30日に東ベルリンの100名の自称議員で「市議会」を開催させた。そして参事会を合法的に解任したと声明し、フリードリヒ・エーベルト(同名の元ヴァイマル共和政大統領の子)を市長に選出した。, 1948年6月、ソヴィエトの駐屯軍はソヴィエト占領地域から西ベルリンに向かう道路と鉄道網をすべて封鎖し、ベルリン全体の経済を統制しようとした。大ベルリン市庁では東ベルリン同様、西ベルリンの全市民に対して食糧配給カードを配布したが、ほとんどの西ベルリン市民が食糧配給カードを利用しなかった。この封鎖は象徴的な事件で、もっぱら西側ドイツからの物資輸送を妨害するためだけに行われた。しかし西ベルリン市民は、自らを取り巻く政治情勢から、西部ドイツ経済圏の方に強い帰属意識を持ち、東側地区や周辺地域からの物資輸送に見切りをつけていった。, アメリカ政府はこの事態に対応し、食糧、燃料やそのほかの物資を西ベルリンに空輸する作戦(空の架け橋(ドイツ語版)、ベルリン空輸作戦)を実行する。ベルリン封鎖は1949年5月12日に解除されるが、空輸作戦は同年9月まで続行された。またこの作戦の一環としてアメリカ軍技術者によりテンペルホーフ空港が拡張された。この空輸作戦にあたって、パイロットが着陸時に子どもたちに菓子を窓から投げ落とすことがあったことから、ベルリン市民は空輸作戦に使われる航空機をレーズン爆撃機と呼んだ。なお菓子の包みは東ベルリンにも落とされた。, 西ベルリンを自らが占領する地域に組み込み、また経済的に分離することを阻止しようとしたソヴィエト連邦の目論見は完全に失敗した。さらに、西ベルリンの住民は封鎖前よりも西部ドイツとの政治的・経済的な結びつきを強く認識するようになった。西ベルリンが政治的にも経済的にも乖離していく動きはもはやとどまることはなかった。, 1949年5月23日、米英仏3か国占領地区からなるドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立し、同日公布された基本法の第23条では、大ベルリンを連邦州の1つとすることがうたわれた。これは同年10月7日に成立したドイツ民主共和国(東ドイツ)も同様であった。当時のドイツ民主共和国憲法では、ドイツ全体を「不可分の共和国」 (unteilbare Republik) と規定し、ドイツ国籍はただ1つのみであり、首都はベルリンである、とした。これは紛れもなく大ベルリン、すなわちベルリン全体を指していた。東ドイツの視点では、大ベルリンはソヴィエト占領地区内にあり、その西部を西側連合国が管理している、とされていた。このため新たに成立した東西ドイツ両国は大ベルリンにかかるあらゆる権利を主張していたが、実際には1990年10月3日まで、いずれかの完全な支配下に置かれることはなかった。, 1950年、西ベルリンにおいてベルリン州憲法(ドイツ語版)が施行される。ベルリン州憲法第1条第2項では、ベルリンは1990年以前においてもドイツ連邦共和国(当時、政治的にはひとつのドイツの一部という意味で「西ドイツ」という表現が用いられていた)の1連邦州であるとうたわれていたが、この条文はベルリンが連合国の管理下におかれていたため効力を有することはなかった。1950年12月3日、初のベルリン市議会選挙が実施された。, 1953年6月17日、当初60人の建設業労働者で始められたデモはその後、全国規模の暴動に発展した。もともとデモの目的は、直前に東ドイツ政府が決定した労働生産性の引き上げ政策に抵抗するというもので、デモ行進は工事中のスターリンアレー(現在のカール=マルクス=アレー)に向かっていた。アメリカ軍占領地区放送局(ドイツ語版) (RIAS) によるデモについての報道では、多くの東ベルリン市民がこのデモ行進に加わって団結していたとされている。東ベルリン市民がポツダム広場に到達すると、西ベルリン市民からも支援を受けていた。また東ドイツの一部の州でも東ベルリンでの蜂起に呼応してストライキやデモが実施された。, 蜂起に統制が利かなくなるおそれが出たことにより、東ドイツ政府はソヴィエト軍に支援を要請した。このため市街戦が起こり、武装した労働者との激しい銃撃戦となった。この暴動の鎮圧に際して、少なくとも153人の死者を出した。また西ベルリンの労働者の加担、RIASの報道、人民警察への攻撃、東ドイツ政府機関が入居するコルンブスハウス(ドイツ語版)への放火を利用し、東ドイツ政府はこれを反革命動乱、西ベルリンの策謀とした。しかし反感を買った労働生産性引き上げ政策は撤回され、また今後、反乱が起きた場合、ソヴィエト兵に頼らずとも鎮圧を可能にすべく、党の方針に従う市民からなる労働者階級戦闘団が結成された。, 1961年8月13日、東ドイツ政府はベルリンの分断を強固にするためにベルリンの壁の建設を開始した(ベルリン危機 (1961年)(英語版))。ベルリンの壁建設計画は東ドイツ政府の国家機密であった。東ドイツは経済や職員が流出すること(いわゆる「足による投票 (Abstimmung mit den Füßen)」)を恐れ、東ドイツの国民が西側に移住することを壁によって阻止しようとしたのである。, 早朝、ポツダム広場に石塊が積み上げられ始めた時点でアメリカ軍は実力を行使して壁の建設を妨害する準備はできていたものの、実際には壁が出来上がっていくのをただ眺めているだけであった。西側3か国は西ベルリンの封鎖を「露骨な手段」と伝え、遮断の時期と規模に驚きをあらわにした。しかしながら西ベルリンへの通行が遮られたということではなかったため、西側3か国は軍事介入を行わなかった。, 1963年、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディがベルリンを訪問した。シェーネベルク区庁舎(ドイツ語版)の前でケネディは壁について演説し、歴史に残る "Ich bin ein Berliner" で締めくくった。この演説は、東ドイツに浮かぶ民主主義の孤島にあるベルリン市民にとっては大きな意味を持ったが、同時に壁建設を部分的に容認するアメリカの姿勢を象徴するものであった。その一方で壁は西側3か国にとっても東ドイツにとっても政治・軍事の面での安定化を意味し、西ベルリンの現状はまさしく固定化された。ソヴィエト連邦はかつて1958年に西側3か国に対しニキータ・フルシチョフによる最後通牒(ベルリン危機 (1958年)(ドイツ語版))で要求した、非武装かつ「自由な」都市、西ベルリンを放棄したのであった。, 1971年、西ベルリンとの通行について取り決めたベルリン4ヶ国協定が発効し、道路封鎖によって政治的・経済的に恫喝される心配もなくなった。さらに4か国はベルリン全体に対する共通の責任を確認し、西ベルリンはドイツ連邦共和国を構成する領域ではなく、かつドイツ連邦共和国による統治は及ばないものとされた。4か国の地位に関してソヴィエト連邦は、西ベルリンのみ適用されるとしたが、西側3か国は1975年に国際連合に宛てた文書で強調して、ベルリン全体に及ぶものとした。, 西ベルリンは西ドイツから多額の財政支援を受けたが、「西側のショーウィンドウ」が東ドイツでプロパガンダ効果を発揮することを期したものでもあった。また企業は多額の投資奨励金を受け取っていた。ベルリン手当(ドイツ語版)と呼ばれる6%の割増賃金は、慢性的な労働力不足を補うものとなっていた。, 西ベルリンのクーアフュルステンダム(ドイツ語版)(クーダム)と東ベルリンのアレクサンダー広場はそれぞれにおいて代表的な都心部として発展していった。西ベルリンには1948年に独自の大学としてベルリン自由大学が設立された。さらに大きな建設プロジェクトには、市内自動車高速道路(ドイツ語版)、ベルリン・フィルハーモニー、オイローパ・センター(ドイツ語版)、ベルリン・ドイツ・オペラ新劇場があった。, 東ベルリンでも西に対抗すべく、様々なプロジェクトが進められた。ベルリンテレビ塔、共和国宮殿といった大規模建造物の建設、カール=マルクス=アレーの整備や大規模な住宅開発が行われ、これらのプロジェクトはすべての市内地区で進められた。また東ベルリンのおよそ50%の都市部の世帯が東ドイツの国庫から融資を受けていた。, 1968年以降、西ベルリンはベルリン自由大学で起こった学生運動の中心地となり、とくにシャルロッテンブルクでは学生の活動が頻繁に行われた。またクロイツベルクのコッホ通り(ドイツ語版)にある保守系マスコミ、シュプリンガー社の本社周辺もデモの中心地となっていた。この運動で争点となっていたのは住民を分断する社会的な対立で、ときに学生と警察とのあいだでのにらみ合いに暴力が伴ったこともある。, 1967年6月2日、ベルリン・ドイツ・オペラの近くでイラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーの訪問を反対するデモに参加していた平和主義の学生ベンノ・オーネゾルクが私服警官カール=ハインツ・クラスに射殺される事件が起こったことにより、翌1968年には西ドイツ全土で学生運動が激化するようになった。, 1970年代初頭、西ベルリンではテロ事件が頻発する。ドイツ赤軍から派生した集団で、ベンノ・オーネゾルクの射殺事件にちなんで名づけられた6月2日運動(ドイツ語版)が頻繁に活動していた。1974年11月10日、ベルリン高等裁判所長官ギュンター・フォン・ドレンクマン(ドイツ語版)が殺害され、また1975年にはキリスト教民主同盟のペーター・ローレンツ(ドイツ語版)がテロリストに誘拐されるという事件も発生している。, 西ベルリンでは空き家への一斉投機制限により住宅が不足し、多くの貧困家庭や移民が困窮することになった。これに対抗して、1970年代末にクロイツベルク東部の旧郵便区域 SO 36(ドイツ語版)では大規模で盛んな不法居住運動が起こる。1981年7月にはベルリンで不法居住されている住宅は最大の165軒となっていた。これらのうち1984年11月までには賃貸や売買などの契約が成立して不法状態が解決され、残りの住宅では立ち退きの措置がとられた[6]。1980年12月には住居を不法占拠しようとして、不法居住者と警察とのあいだで激しい衝突が起こっていた。また8軒の不法居住の立ち退きに反対するデモに参加していた際、デモ参加者が死亡し、また警察官に突き飛ばされた不法居住者クラウス=ユルゲン・ラタイ(ドイツ語版)がベルリン交通局(ドイツ語版)のバスにひかれて死亡するという事態も起こっていた。, 1989年のヴェンデ(ドイツ語版)(大転換)を受けて、東ベルリンのベルリン=フリードリヒスハイン(ドイツ語版)やプレンツラウアー・ベルクで再び不法居住運動が起こる。この運動に対して、とくに東ベルリンの人民警察は積極的に動いて事態は沈静化した。ところが1990年7月に東ベルリン市庁が西ベルリン政府の影響下に置かれたことにより状況は変化した。マインツ通りの立ち退き(ドイツ語版)をめぐって激しい暴動が起こるが、多くの不法居住が以前の不法居住と同じように正常化されていった。その後も残っていた不法居住の住宅はベルリン倫理方針(ドイツ語版)によって許容されてきたが、1996年から1998年にかけてベルリン州内相イェルク・シェーンボーム(ドイツ語版)もとで立ち退きが進められた。, 1982年から1986年にかけて、1987年にベルリン750周年を迎えるにあたって東西ベルリンの各地でさまざまな準備が進められた。たとえば西ベルリンではブライトシャイト広場(ドイツ語版)やラーテナウ広場(ドイツ語版)が新装された。また東ベルリンではニコライ地区(ドイツ語版)が新たに古い街並みを再現し建設された。さらに東西ベルリンでは市街地を通るSバーンやUバーンの改修が進められた。, 1989年になるとポーランド民主化運動やハンガリー民主化運動の影響を受けて東ドイツ各地や東ベルリンで反体制デモが多発し、多くの東ドイツ国民がハンガリーやチェコスロヴァキア経由で西ドイツへ逃亡するようになっていた(汎ヨーロッパピクニック)。10月、東ベルリンでドイツ民主共和国建国40周年記念式典が開かれ、貴賓として出席していたミハイル・ゴルバチョフは演説で、ハンガリーやチェコスロヴァキアに逃れた亡命者に関する東ドイツの締め付け政策を認めないということをほのめかした。これによって、東ドイツ政府がソ連の後ろ盾を失ったことが明らかになり、それまで実権を握っていたエーリッヒ・ホーネッカー国家評議会議長(兼ドイツ社会主義統一党書記長)は失脚し、エゴン・クレンツが後継者となったが混乱は続く一方だった。, 11月9日、ボルンホルム通り(ドイツ語版)検問所の国境警備隊は、SED 政治局員ギュンター・シャボフスキーが記者会見での勘違いによる発言を信じて押し寄せていた東ベルリン市民が西ベルリンに通過することを認めた。この他の検問所もこれに続いた。多くの東ベルリン市民がその夜の内に国境を超えた。 Michael Schwibbe, Huth P. et al: ZEIT REISE – 1200 Jahre Leben in Berlin. 『永井清彦著『現代史ベルリン』(1984・朝日選書) ▽橋口譲二著『ディ・マウアー――ベルリンの壁1981~1991』(1991・情報センター出版局) ▽木村直司編『未来都市ベルリン――ベルリン2000年のビジョン』(1995・東洋出版) ▽坂井榮八郎・保坂一夫編『ヨーロッパ=ドイツへの道』(1996・東京大学出版会) ▽木戸衛一編著、小松恵一他著『ベルリン――過去・現在・未来』(1998・三一書房) ▽ブリジット・ソゼー著、宇京頼三訳『ベルリンに帰る――1997年ドイツ日誌』(1999・毎日新聞社) ▽谷克二文、鷹野晃・武田和秀写真『図説 ベルリン』(2000・河出書房新社) ▽笹本駿二著『ベルリンの壁崩れる――移りゆくヨーロッパ』(岩波新書) ▽杉本俊多著『ベルリン――都市は進化する』(講談社現代新書)』. 西ベルリン(にしベルリン、ドイツ語: West-Berlin, 英語: West Berlin, フランス語: Berlin-Ouest)は、第二次世界大戦終戦後1949年から1990年まで、アメリカ・イギリス・フランスが占領したベルリン西部の地域。周囲をドイツ民主共和国(以下:東ドイツ)の領土(ソ連が占領し、後に東ドイツの首都となった東ベルリンも含む)に囲まれていた。, このことから、西側自由主義陣営からは「赤い海(共産主義諸国)に浮かぶ自由の島」と評された。, 西ベルリンでは、外交と通貨行政をドイツ連邦共和国(以下:西ドイツ)政府が代行するという協定を結んでいたため、西ドイツの通貨(ドイツマルク)が用いられ、西ドイツ国籍の人が多く居住し、担当する市長や市議会議員も西ドイツの政党に所属していたことから、実質的には西ドイツの飛び地であった。とは言え、旧連合国による占領地域であり、あくまでも公式には西ドイツ領ではなく、西ドイツと西ベルリンでは以下のような違いがあった。, 西ベルリンは、以下の行政区によって構成されていた。戦前の都心に当たる部分は東ベルリンに取られていたため、西ベルリンは戦前の新興繁華街や郊外を基盤に開発された。, 動物園駅から伸びるクーアフュルステンダム通り、通称“クーダム”が西ベルリンにおける商業の中心地となっている。動物園駅から、かつて旧西ドイツ随一の近代的ショッピングセンターとして名を馳せ、現在は建物の老朽化と非欧州的な入居テナント(インドなど南アジア雑貨店、他、東アジア雑貨店)や安物アクセサリー店などが目立つヨーロッパセンター(メルセデス・ベンツのスリーポインテッドスターを屋上に掲げている)と、第二次世界大戦中に爆撃され半壊した尖塔を持つカイザー・ヴィルヘルム記念教会が正面に見える[2]。, 東西ドイツ間の協定により、西ドイツ国内との交通路として下記の使用が合意された。なお上記のように、ベルリン封鎖の際には空路以外の全てがソ連と東ドイツによって閉鎖された。, 東西ベルリンの国境チェックポイント・チャーリー、西ベルリン側から(1985年8月), 東西ベルリンの国境チェックポイント・チャーリーを望む、西ベルリン側から(1985年8月), カイザー・ヴィルヘルム記念教会とオイローパセンター(ヨーロッパセンター)(1985年8月), 記念切手「ニュー・ベルリン」シリーズ「オイローパセンター(ヨーロッパセンター)」(2008年12月), 世界文化の家(Haus der Kulturen der Welt, 略称:HKW)、旧名称:ベルリン・コングレス・ハレ、建築デザイン:ヒュー・スタビンス(2009年9月), ドイツ語では不定冠詞をつけない “Ich bin Berliner” が通常の表現であるが、不定冠詞の ein を付け加えることで「私だってベルリン市民の一人なのです」という強調表現になっており、「私は, Former border crossing at Friedrichstrasse (Checkpoint Charlie), https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=西ベルリン&oldid=79913756, 西ベルリンからは西ドイツの連邦議会の議員を人口に応じて選出しており、議会での発言権および委員会の投票権を有していたが、首相任命権・予算審議権など連邦に関する議案の投票権は与えられていなかった。, 空路:幅30キロの航空路3本。なお上記のように、西ドイツの航空会社の西ベルリンへの乗り入れは禁止された。, 外国人旅行者、外交官、西側軍関係者が西ベルリンと東ベルリンを往来する唯一のルートであった, この検問所は、フリードリヒ通りとツィマー通りの交差点にあり、そこはアメリカ統治地区とソ連統治地区の境界上であった。, 西ベルリンから東ベルリンへ行くには西ドイツを出国し、東ドイツに入国する必要があった。ビザは24時間ビザが国境で取得できたが、強制両替と引き換えだった。この24時間ビザは25西ドイツマルクを, 東西ドイツ統合に伴い、1990年6月22日にチェックポイント・チャーリーは廃止された。. ドイツには,学術・経済・政治・文化等幅広い分野にわたる日独・日欧の知的交流拠点である「ベルリン日独センター」,主に日本文化の紹介事業等を行う「ケルン日本文化会館」がある。 次に、国外からの移住者においてやはり目を引くのは、欧米諸国に次ぐ中東の国々である。ドイツの難民受け入れ政策に関しては昨今様々な議論が続いているが、今後も中東系の「新ベルリナー」がベルリン、そしてドイツ社会の中で一定数の割合を占めることになるのは間違いないだろう。また、財政難を抱えるイタリアなどの欧州内の隣国や、2000年以降のEU拡大に伴うポーランドやブルガリア、ルーマニアといった東欧諸国からの移住も注目すべきポイントである。, 2017年もあとわずか、今年もまた「新しいベルリナー」が誕生している。世界中からの希望と期待を背負った人々が集うベルリン。ベルリナーという言葉は単なる”ベルリン市民”という枠を超え、より広く多様な意味合いを持つようになるであろう。ベルリンを訪れ、住まう人々を理解することは、今後のベルリンの未来を紐解く重要な鍵ではないだろうか。. ベルリン暗黒時代の始まりです。1636年ベルリン第11回五輪大会が行われ、ヒットラーの巨大な妄想を予感させました。1939年9月1日に第二世界大戦争が始まった時、ベルリンの人口は450万人でした。 Angela M. Arnold, Gabriele von Griesheim. 1990年にベルリンの壁が崩壊して以降、一般的にはドイツの経済的な東西格差というのは縮まって来ていると言われてきた。実際にザクセン州やテューリンゲン州のGDPは東西統一以降3倍になり、給与格差も縮まっているとされる。しかし人口動態に関して言えば、東西格差は開く一方となっている事がドイツの社会経済研究機関であるIfoの調べで確認された。, それによると、現在旧東ドイツの人口は1905年の水準にまで落ち込んでいる。更に一部の過疎地域の人口は19世紀の中頃の水準にまでなっているとの事だ。そして、それは今後更に減少する見込みである。一方の旧西ドイツ地域の人口は伸び続け、過去最高を記録している。, この東西ドイツの人口動態の明暗がくっきりと別れ始めたのが1949年の東西ドイツ分裂である。グラフを見る限り、それ以前は東西ドイツともほぼ同じ人口増加率を示している。, もっと詳しくみれば、まず1871年から1936年までの間で、東西ドイツともその人口はおよそ2倍になった。この時点で、旧東ドイツの人口は1600万人、旧西ドイツは4200万人とのことだ。若干だが旧東が旧西より増加率が高い。, 更に1936年から1949年までも概ね同じような人口動態を示しており両地域ともおよそ15-20%増加したが、ここでも寧ろ旧東の方が増加率が高い。特に第二次世界大戦終戦直後に、旧東の地域は東ヨーロッパからの戦争難民を受け入れたため短期間ながら強い増加率を示したとされる。, しかし、1949年ドイツが東西に分裂して以降、多くの優秀な人材が東から西へ移動し、当時の東ドイツは1961年にベルリンの壁が建設されるまで多くの人口を失った。一方西ドイツは東からの流入に加え、1960年台に南ヨーロッパから大量の労働力を受け入れて1970年代まで強い増加傾向を示した。, それ以降、東ドイツはベルリンの壁の建設、西ドイツはベビーブームの終了で横ばいの状態になるが、再び東西の人口差が更に開く歴史的イベントが1989年に発生する。言うまでもなく、ベルリンの壁の崩壊である。そして東西ドイツが統一すると、再び旧東ドイツから旧西ドイツ地域へ多くの優秀な人材が流入し、その差は更に広がった。, これは先日ハーバード大学で演説した首相メルケルの言葉が端的に示しているが、それだけ多くの人々が自由な世界を求めていたという事だろう。彼女自身も壁の崩壊によって、研究者から政界へ身を投じる事になった優秀な人材の一人であった筈だ。, 何れにしても、戦後旧西ドイツ地域では60%もの人口が増加した一方で、旧東のそれは15%減少した。例えばドレスデンやライプツィヒは現在それぞれ55万人を擁する東ドイツ屈指の都市だが、もしも旧西ドイツ同様に発展していれば、今日には100万都市になっていたとされる。, 東西ドイツ統一後、旧東ドイツの復興のために多くのお金が投資されているとされるが、結局人々は東ドイツを去り西ドイツへ行っているという事実が明らかになった。実際に、旧東ドイツ地域ではAfDという右派ポピュリストが非常に強い勢力を持っているが、これは多くの人々が現状に対する不満を持っている事の裏返しでもあるだろう。, おそらく、依然として旧東ドイツには競争力のある産業、企業が育っておらず、やはり優秀な人材が仕事を探すとなると、必然的に西の大都市へ行くことになる。残るのはリスクを犯さない現状維持を望む人々で、助成で受けたお金を新たな事業に投資したり、大きな産業を発展させようというアイデアもないのかもしれない。, 一方で、旧東ドイツだけでなく、旧西ドイツの地域も環境問題や、不動産価格の高騰などを招いており、以前より住みにくくなっている。これは急激な人口の増加と無関係ではないだろう。この現状を踏まえて、政治は適切な答えを国民に示す必要がある。このデータにより、今年行われる東ドイツ3州の州議会選挙が、更に注目される事になるだろう。. ベルリンの地方紙であるベルリナー・モルゲンポスト(Berliner Morgenpost)は”Wo die meisten Neu-Berliner 2016 her kamen (2016年、新しいベルリナーの大多数はどこから来たのか?)” と題し、その結果を発表した。下の図をご覧いただきたい。, kleine Korrektur: Afghanistan muss natürlich Ausland sein pic.twitter.com/GLXGSi7k5D, — BM Infografik (@BMgrafik) November 18, 2017, 出典:BM Infografik Twitter公式アカウントより(2017.11.18の投稿), 濃い緑がドイツ国内からの移住者、薄い緑が国外からの移住者となっている。時計回りにだんだんと数が少なっているのがお分かり頂けるだろう。ランキングを整理すると以下のようになる。, まず、ドイツ国内からの移住者において注目したいのは、17位までにランクインした8つの州(特別市)のうち6つが旧西ドイツエリアに位置しているということである。11月14日公開の「壁崩壊から28年、ベルリンは今」と題したブログ(https://goo.gl/92S6Be)では、2014年から旧東ドイツ地域と旧西ドイツ地域間の移住傾向が逆転していることについて触れたが、その結果がこの結果にも如実に表れていると言えるだろう。(参考資料:『東西移住傾向が逆転、1990年統一後初めて ドイツ』AFP BB NEWS http://www.afpbb.com/articles/-/3088855 )

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Posted on 2020-10-25 | Posted in 未分類 | No Comments »

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